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東日本大震災10年を振り返る、東北から遠く離れた被災地

 千葉県北東部にあり、太平洋に面する旭市は2011年3月11日、東日本大震災の津波に襲われ、高齢者ら16人の死者行方不明者が出た。最大波が到達したのは地震が発生してから約2時間半後の夕刻で、避難先の高台から自宅に戻り始めた住民が少なくなかったことが犠牲を拡大したとされる。あれから10年、東北沿岸から遠く離れた被災地でも甚大な被害が出た教訓は今も語り継がれている。(共同通信=永井なずな)



▽ここに残す


「被災工場を解体して更地にした時、この正門だけは残した。原爆ドームみたいに、何が起きたか伝える場所にしたくて」。津波で会社が全壊した米菓メーカー「山中食品」の山中武夫社長(68)が古びた石門をそっとなでた。門に掲げる木製の看板は、数百メートル先で漂流していたところを奇跡的に発見された。印字された社名は消えかけているが、あえて直さず被災時のままにしている。


あの日、海沿いの工場に津波が押し寄せ、胸まで海水に漬かりながら従業員と避難した。翌朝、工場や事務所、敷地内の自宅では流れ込んだ車や流木が散乱。外壁は流失し、正門だけが残った。水没を免れたわずかな在庫菓子を見つけ、避難所に届けた。



なすすべがなかった。それでも「じっとして何もしないと余計つらく、以前と同じように毎朝門の扉を開けた」。3月末、集まってもらった従業員に残りの給料を渡し、「解散」を伝えた。仮事務所として置いた小さなコンテナにこもり「家族や先代、従業員やお客さん。いろんな顔を思い浮かべて1人で先のことを考えた」。後に周囲から「あの頃の社長には掛ける言葉が見つからなかった」と明かされた。


補助金や融資を得て13年3月に営業を再開。「また食べたかった」「待ってたよ」。温かい反応に目頭が熱くなった。従業員や工場長も戻ってきて、再建を支えてくれた。


津波から10年。自慢のおかきは震災前と変わらず地元の人の「ソウルフード」で、工場に併設の直売所は買い物客が途切れない。「工場も事務所もきれいに建て替えたけど、あの日々のことは忘れられない」



▽持病の薬を取りに家に戻って…


午後2時46分に発生した東日本大震災で、旭市は震度5強を観測した。津波の第1波、第2波が去った後の同日午後5時20分ごろ、沿岸地区に最大7・6メートルの津波が到達した。


外が暗くなってきたため避難先から帰ろうとした人が多い時間帯で、持病の薬を取りに家に戻って津波に巻き込まれ死亡した例もあった。震源地から比較的離れた地域で、既に1、2波も去っており、「もう津波は来ないだろうと油断した人が少なくなかった」(住民)。



2人が行方不明となり、関連死を含め14人が死亡。建物被害は全壊336棟、床上浸水も677棟に上った。当時の天皇、皇后両陛下は同4月14日、東日本大震災に被災した地域の中で最初に旭市を訪問し、避難所で住民を見舞った。


▽阪神大震災の応援


「東北から離れたこの街まで大津波が来るなんて、多くの人は想像しなかった」。旭市の被害を伝える市防災資料館の戸井穣館長(76)は話す。10年の節目となる3月で館長退任するが、災害から身近な人を守りたいという決意は変わらない。



戸井さんの根っこには、1995年の阪神大震災で警察官として被災地へ応援に駆け付けた経験もある。がれきの中から住民を救助したが、救えなかった命もあった。遺体の処理を担当し、悲しみに暮れる遺族も目にした。


引退し地元旭市で区長を務めていた時、東日本大震災が発生。近所の人も亡くなった。「本気で地域の防災に取り組んでいたら結果は違ったかもしれない。もう後悔したくない」と資料館の設立に尽力。資料館の建物は3階建てで、津波の避難場所も屋上に整備された。


戸井さんは防災士の資格を取得しており、語り部や啓発活動は館長を退いた後も続けるつもりだ。震災の記憶がない小中学生に伝える難しさはないかー。そう問われることは多いが、「逆だよ」と戸井さん。若い世代の反応はとても熱心で、一生懸命さを感じるという。「大人の方が真剣さが減っていないかと、常に自分を戒めている」。他の地域と比べれば千葉の被害は少ないが、「その分忘れやすい。風化させたら絶対にだめ」。気迫がにじんでいた。

東日本大震災10年を振り返る、東北から遠く離れた被災地 東日本大震災10年を振り返る、東北から遠く離れた被災地 Reviewed by RichKid on 3月 04, 2021 Rating: 5

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